ロックンロール・キャン・ネヴァー・ダイ

tohramiki2005-03-10

「そこには眼に映るより複雑な状況がある──」ニール・ヤング

 先月2月の16日、HMJMのウェブサイトにて、オリジナルDVDのリリースを休止するという正式なアナウンスがされた*1。これに関しては、それ以前にライター安田理央が自身のサイト“安田理央の恥ずかしいblog“にかなり詳しい分析と感想を書き、それに対して雨宮まみがやはり自身の“NO!NO!NO!”にカンパニー松尾へのインタビューを三回に分けて掲載し、さらに安田への反論と意見を書いた。
 
 AV業界と関係ない人には、カンパニー松尾、HMJM、オリジナルDVDと言っても何のことかサッパリ判らないかもしれないけれど、すみません、それをココに書き始めるとクドくなるので興味のある方はそれぞれのサイトに行って読んでみてください。安田くんと雨宮さんの意見は時系列で“NO!NO!NO!”に整理されています。また、カンパニー松尾、HMJMに関しては本家HMJMのウェブサイトにもありますが、“安田理央の恥ずかしいblog〜02月07日レンタルAVが見た夢“にとても判りやすく解説されています(何ンか、こういうのインターネットぽいと言うか、ブログならではでイイですね)。
 
 HMJMオリジナルDVDのリリースが止まるという話はカンパニー松尾本人から聞いていた。予想されていたことではあったけれどやはり売り上げ的にちょっと苦しいのでしばらくリリースをお休みするということ。そして現在もう少し売れセンの別レーベルを準備中だということ。さらに7インチシングルサイズの紙ジャケによるシリーズもあくまで休止であって出し続ける予定であり、すでに堀内ヒロシ監督による新作の撮影も終わっているということ、などなどであった。
 
 雨宮まみが言うようにこのリリース休止は「カンパニー松尾の才能にかすり傷ひとつつけることはできない」だろうし、安田理央が指摘しているようにHMJMは制作会社としては引く手あまたの才能集団なのでそれによって経営がどうこうという話にはならないはずだ。現に去年の年末、社員の堀内ヒロシや松尾章人の給料は上がったらしいし4月には沖縄へ社員旅行だそうだ。めでたしめでたし(笑)
 
 が、にも関わらずこのニュースはすごい早さで業界を駆けめぐった。よって僕みたいな業界の動きに疎い在宅型ライターの耳にまで届いたワケだが、そのほとんどはあまり気分の良くないものであった。今回はその気分の良くなさ、について書いてみたい。それは僕がAVやエロ本の世界に関して常々感じていたものだ。多少長くなるけれどお付き合い下さい。そう言えばカンパニー松尾『Auction01』(HMJM)の冒頭には「200分の長旅です。こゆっくりお楽しみください」というテロップが出る。
 
 気分の良くなさ──、それは、要するに「それみたことか」といった反応である。「そんな好き勝手なコトして食っていけるほど世の中は甘くありませんよ」「やりたいコトは我慢して、自分を殺して殺してお客様第一に商売しなくてはモノは売れませんよ」というワケである。僕はこういうのを“根拠のない滅私奉公の思想”と呼んでいる。日本人はどういうわけかこの手の考え方が好きだ。そしてAVやエロ本の業界には、不思議なことにそういった不合理な日本社会が縮図のような形になって現れやすい。
 
 これはHMJMに始まったことではない。例えば豊田薫という監督がいる。言うまでもなく代々木忠と並ぶAV界の巨匠だ。八〇年代は大手レンタル系メーカーで非常に重厚で大がかりなドラマを撮っていたが、九〇年代半ばからは個人レーベル「リア王」を立ち上げ、ビデ倫を通さない自主規制の形でミニマムだが非常にラディカルな作品をリリースし続けている。確か今年で10周年になるはずだ。しかしながら最近でこそやっと無くなったが、発足当初は一年に一度くらいのわりで必ず「リア王が売れてないらしい」「ツブれそうだ」という噂が流れた。中には豊田が監督職を追われるなんて奇妙な話まであった。
 
 繰り返すけれど「リア王」は豊田薫のセルフレーベルだ。豊田が辞めれば「リア王」も終わる。おそらくそういったモノ作りの在り方がどうしても理解出来ないという人が世の中にはいるということだろう。才能のある個人がやりたい事だけをやりたいようにやって生きていくということを、だ。だからそういう奇妙な噂が流れる。それに、「自己主張なんてせずお客様を第一に」という人の意見は何故かとてもヒステリックだ。そうでないとまるで自身のアイデンティティが崩壊してしまうかのようだ。どうしてだろう?
 
 また、これはHMJM作品に限らないが、AVには純粋なエロ以外の要素はいらない、という意見もある。映像ばかり凝っていてエロがないので借りて損した、見ていて腹が立ったなどどまことしやかに言う人もいる。だけど僕はそういう意見を耳にするたび、本当かよ? と思う。少なくとも僕は20年間AVを見続けているけれど、一度だってそんな作品にお眼にかかったことはない。例えば美しいイメージシーンを撮れるけどエロが撮れない監督なんていない。エロが撮れないヤツに何が撮れるんだ。あたりまえの話だろ、と思う。
 
 眼の前にイイ女がいたら誰よりもエロく撮りたい、そう思うのは映像屋の本能であり性(サガ)だ。それが無いヤツに美しい凝った映像なんて撮れるはずがない。だから自分の撮ったAV女優を他の監督の方がエロく撮ってたりすると死ぬほど口惜しい。女に「だってあなたより××さんの方がオチンチンが大きくて上手なんだもん」と言われたような気分になる。エロに限らず映像を撮るというのはそういうことだ。モノを作るというのはそういうことだ。それを前にしたら「売れる売れない」「お客様のニーズを第一に」なんていう気持ちは粉々に吹っ飛んでしまう。
 
 もちろん例えば井口昇がセックスよりもスカトロに、中野貴雄女闘美に、ある時期のバクシーシ山下平野勝之が暴力に向かったという面はある。たた、そこで気をつけないといけないのは、自分に理解出来ない領域はエロでないと判断してしまってはいけないということだ。スカトロジーキャットファイトも暴力衝動もリビドーという点では同じだ。僕自身スカトロというのはサッパリ判らないが、井口昇の作品には圧倒される。常識をくつがえされる、感性をねじ伏せられる、映像の持つ力とはそれだ。
 
 それなのに何故そういった根拠のない考え方がはびこるのか? ハッキリ言おう、モノを作らなくても良い人がAVを作っているからだ。映像に対する飢餓感が無い、セックスやエロに対する哀しいほどの性(サガ)が無い、撮り始めたらとことんまで暴走してしまうモノ作りへの欲望が無い。だから満足出来る作品を作り上げた時の、あの、エクスタシーを越えるような強烈な快楽を知らない。従って自分自身でモノの良い悪いが判らない。だから誰かにその判断を委ねざるを得ない。それが売り上げでありユーザーだ。
 
 しかしそれは大いなる幻想だ。「売れる売れない」というのは実のところ明確には判らない。すでに近代化の終焉を過ぎた現代の資本主義社会にあっては、お金はプールするものではなく廻すものだからだ。自分の会社の業績が伸びている、拡大していると実感することは出来るだろう。しかしその際でも設備投資や人件費の拡大がなされているわけで、一寸先はやはり判らない。個々の作品の売り上げについても同じだ。そこには流通や価格や営業の問題が複雑過ぎるほどに絡み合っている。特にAVではメガヒットと言われるものにはライトユーザーという名の浮動票の獲得が大きなポイントになるので、作品の内容以外の要素が多く関わり過ぎる。女優の知名度、宣伝媒体、効果的なパブリシティ、etc. 単純な例を挙げれば、某アイドルタレントがAVに出演! なんてことになれば内容がクズであっても絶対に売れる。そういうことだ。
 
 ユーザー、ということについても考えてみよう。ポルノグラフィのユーザーとは巨大なサイレントマジョリティである。それらは我々のアクセス不可能な集団無意識の下で常に強烈な綱引きをしている。AVに限って言えば、現在セル=インディーズの勢いがレンタル系のそれを凌駕しているために、安田理央が指摘するように実用的なエロビデオが強く支持されているようにも見える。しかし、それも本当のところはやはり判らない。九〇年代半ば、AVにドラマは必要ないという風潮があったけれど、ココ数年、中高年や衛星放送のユーザーにじわじわと支持されている。彼らは一時期その綱引きに負けて沈黙していたに過ぎない。
 
「直接的でないエロ」を支持する層もまた同様かもしれない。例えば女性だ。カンパニー松尾の『Tバックヒッチハイカー』や平野勝之の『わくわく不倫旅行』等、一筋縄ではいかない恋愛を絡めたAVに強く惹かれたという女の子は多い。彼女達は言う、「切ない」と。もちろん聞こえてくる声はとても小さいがいつそれが変化するかは読めない。ベストセラーになった永沢光雄の『AV女優』も、読者は圧倒的に若い女性だという。
 
 おそらくもう頭の良い人はそれに気づいて動き始めているだろう。あたりまえの話だが男の数だけ女はいる。女性がごく普通にAVを借りられる、買える時代がくれば、アダルトビデオはさらに膨大なシェアを獲得するだろう。ごく普通にとは、気軽に安全に、恐いイヤな眼に遭わずに、という意味だ。先日読者の女性からメールを頂いた。その方は「本屋さんでアダルト雑誌を買っただけで変な人に後をつけられたりするんです」と書いていた。いわんやレンタル店のAVコーナーに一人で入る勇気のある女性は少ないはずだ。*2ごく普通に、というのはAVにとって実はとても大切だ。それに関しては後述する。どちらにせよ、「しょせん女にAVなんてわからないよ」などと言っていると、我々は巨大なビジネスチャンスを失うことになる。
 
 言っても賛同してくれる人がいなさそうなのであまり発言してこなかったが、僕はAVほど女性に向いているメディアはないと思っている。レディスコミックの隆盛を例に取るまでもない。そもそも映画もトレンディドラマも、韓流ドラマも、見ているのは全部女だ。男じゃない。女は感性に訴えかけて来るものを求める傾向にある。ドラマに限らない。ヴィジュアル系のポップス、若手のお笑い、最初に飛びつくのは女の子達だ。それにくらべ大抵の男はゴルフとプロ野球中継だけで満足してしまう。そう考えると男に本当にAVが必要なのかも疑問になってくる。そもそも精力の衰えた老人は別として、男は基本的に女ほど欲情するのにファンタジーを必要としない。だからバカな男だけが「ヌケるから」という根拠のない理屈に縛られてAVを見ている。
 
 話を戻そう。直接的なエロ以外AVに必要か否かという話だ。誤解の無いよう書いておくけれど、僕はカンパニー松尾平野勝之らの作るいわゆるサブカル的と呼ばれるAV以外認めないとは考えない。例えば日比野正明という監督がいる。AVをよく知らない人でも村西とおるの一番弟子だった男と書けばだいたいの想像がつくだろう。日比野は直接的で判りやすいエロ以外は決して撮らない、AVはそうであるべきだと公言もしている。だからというわけではないが、彼の作品がハマッた時には本当に素晴らしい。これぞエロビデオ! というAVになる。しかし何の才能もセンスもコダワリも無い監督が「なんだ、あれで良いのか」と安直に真似たりすると、ただマタのユルい女がセックスしてるだけのエロくもなんともないフヌケたビデオが出来上がるだけだ。何故か? 日比野正明の作品には「エロ以外の要素は要らない」という徹底した哲学があるからだ。
 
 問題はソコだ。直接的なエロ云々の話になると、それは必ず作品のレベルを落とすということに混同される。どういうワケかAVやエロ本の世界にはユーザーや読者を低く見る傾向がある。日比野正明はAVを判りやすく提供しているが決してレベルは落としていない。ユーザーを低く見ることは彼の哲学が許さないからだ。ユーザーを低く見ること、レベルを落としてすり寄ることがサービスでありエンターテイメントだと思っている人は残念ながら多い。しかしそれはバカげているだけでなくとても危険なことだ。
 
 エンターテイメントをナメてはいけない。確固たる思想信条、哲学に裏打ちされていないサービスは決してエンターテイメントではない。良質なアミューズメントにはなりえない。ディズニーランドを見れば判るだろう。あそこにはアメリカ人の持つ神経症的とも言えるアミューズメントに対する哲学、思想信条がある。
 
 アメリカ人の持つ思想信条──、例えば我々がハワイやアメリカ本土に行ってホテルに宿泊する時、エレベーターでアメリカ人と乗り合わすことがある。そんな時彼らは笑顔で「ハイ」と言う。「やあ、どうだい?」と訊く、「ファイン」と答える。「良い一日を」「あなたも」と言って別れる。見ず知らずの人間同士が、だ。それがアメリカ人のメンタリティだ。それは宗教上の理由で祖国を追われメイフラワー号で新大陸に渡り、ネイティヴアメリカンを大量に虐殺して国を作った者達のせっぱ詰まった生き方だ。彼らのDNAには平和に生きること、楽しむことへの圧倒的な飢餓感がインプットされている。
 
 日本はアメリカと違って平和だから関係ない、なんて社民党みたいなコト言ってると我々はますます大切なモノを失うだろう。日本映画が衰退したように、各地で「遊園地」がバタバタと倒産したように、だ。ハリウッドの娯楽映画は判りやすい。それは英語が堪能ではないヒスパニックの人や我々アジア系の人間にもわかるように作っているからで、決してレベルは落としていない。何故ならそこにはエンターテイメントに対する強烈な飢餓感があるからだ。ひとたびレベルの低いモノを見てつまらない想いをしてしまったら、戦争や貧困や人種差別というどうしようもない現実に押し潰されてしまうという恐怖感だ。香港映画にも、韓国映画にもインド映画にもそれはある。そして数は少ないけれどこの国のアダルトビデオにもそれはある。少なくとも僕はそれを失いたくない。そういうことだ。
 
 何故、直接的なエロ云々の話がしばしば作品のレベルを落とすということと混同されるのか? ちょっとだけ昔話をする。約20年以上前、僕が初めてエロ本*3の出版社に入った頃、上司からことあるごとに「エロ本なんてドカタと変態しか読んでないんだ」と言われた。だからレベルを下げろというワケだ。どうしてそういう発想に至ったのかはわからない。当時のエロ本編集者には元は純文学の文芸誌にいたとか、本当は小説を書きたいのだけれどという人が多くて、その屈折したニヒリズムからではないかと言われた。だけど本当はどうか判らないしあまりにバカバカしくて暗い話なので書きたくない(涙)それより、そんなさなかに「本当にそうなの?」と考えた人がいた。読む人を低く見てバカにしながら本を作るより、自分がやりたい誌面作りをした方が面白いんじゃないの、と。末井昭という人だ。
 
 末井昭*4は当時セルフ出版(現在の白夜書房)という出版社にいて、ヌード写真だけは〈実用写真〉と考え、その合間には田中小実昌赤瀬川源平平岡正明嵐山光三郎といった末井が敬愛してやまない人々を主な執筆陣に『ニューセルフ』『ウィークエンド・スーパー』といったヒット雑誌を作った。それは、本当に画期的なことだった。続いて末井はそれらを通して知り合った荒木経惟を中心に森山大道倉田精二といった写真家を全面に押し出し『写真時代』を創刊する。1981年のことだ。『写真時代』は1988年、発禁処分をキッカケに廃刊するまで続き、最も売れた時で30万部を記録した。モノを売るとはそういうことだ。間違ってもレベルを落として読者にすり寄るすることじゃない。
 
 カンパニー松尾末井昭と似ている。松尾がアダルトビデオに成した変革は〈ハメ撮り〉という手法を確立したこと、〈ロードムーヴィー〉というスタイルを作り上げたこと等々あまりにも多岐に渡り枚挙にいとまがないが、最も大きな点はセックスという〈非日常〉をあたりまえな青年のあたりまえな〈日常〉の中に並列に並べ描き切ったことだ。末井昭は彼がどっぷりと浸かったであろう六〇年代のサブカルチャーを〈実用写真〉を並列に並べて『ニューセルフ』『ウィークエンド・スーパー』を作った。いわばドカタと変態の側だけにあるとされていたエロをコチラの世界に強引に引き寄せたのだ。
 
 セックスとは日常に潜む大いなる〈ハレの場〉だ。〈祝祭〉と言い替えても良い。祭だ。だから人間はその時だけ狂って良い。欲望を解放させる時間だ。そして人々はまた退屈な日常に戻っていく。だからそのハレの狂気を描こうとすると、どうしても自分とは遠い存在をイメージしたくなる。それが〈ドカタ〉であり〈変態〉だ。しかし当然のことながらドカタと変態以外の人もセックスはする。カンパニー松尾が変えたのはそこだった。普通の青年がごくあたりまえに日常を生き、そしてセックスをする。それが描けた時、アダルトビデオは初めて今まで表現出来なかったモノを手にした。ひとつには苦悩であり哀しみであり感傷である。
 
 カレーライスが好きでバイクとロックンロールを愛する青年が旅に出てキレイな女の子と出会いセックスをする。こう書くとまるで出来過ぎたお話だ。しかも松尾にはハメ撮りを含めた秀逸なカメラアングルでそのセックスを写し取るという希有なテクニックがあり、良質なズリネタとして提供する才能があった。しかしそれを描き切るにはその裏側にあるごくあたりまえの青年の持つ苦悩や哀しみや感傷を描く必要があった。それはコインの裏と表だからだ。初期、松尾の作品には彼のセンチメンタルな心情吐露が多過ぎるという揶揄があったが、こう書くとそれらがいかにナンセンスな意見であったか判るだろう。性風俗へ行って一発ヌイてくるワケではない、お仕事としてマタを開く手練れのAV女優と疑似カラミをするのではない、ごく普通の女の子とごく普通にセックスをすることを描くのだ。苦悩や哀しみや感傷がつきまとうのは当然だ。松尾はそれも含めて作品にした。それだけのことだ。
 
 末井がエロ本に、松尾がAVにもたらしたのは端的に言えば〈自由〉だ。末井は『写真時代』を創刊する際“写真論のない写真を”と言い、DPE屋で現像されるサービス版から3分間写真、ビニ本の写真からパンチラ写真、夫婦交換者達が撮り合うお互いのセックスする姿から荒木経惟の写真までを並列に並べた。松尾はバイクに乗ることとロックンロールを聴くこととイイ女とセックスすることを並列に並べた。それは〈自由〉であると同時に〈解放〉だった。ここに来て初めて、ポルノグラフィの制作者は自分と同じ感性を持つであろう人々に作品を伝達する自由を得た。それは同時に〈ドカタ〉や〈変態〉というまったく意味も根拠もないサイレントマジョリティに向けて作らなくてはいけないという呪縛からの解放だった。
 
 解放は送り手だけにもたらされたわけではない。受け手もまた同じだ。安田理央が書いている「ああ、こんなことまでAVで出来るんだ」という感動はそれだろう。出版関係者には松尾ファン、バクシーシ山下ファンを自認する人が多い、とも安田は書いている。本橋信宏も以前、彼らはTVの若いディレクター達に熱く支持されていると書いていた。同様の話を僕はTV制作出身のソフト・オン・デマンド高橋がなり代表からも聞いたことがある。それは同じクリエイターとしてだけではなく、同世代、あるいは同じ感性を持つ者としての共感だったはずだ。先程、女性層、と書いた意味もそこにある。自分と同じように男を好きになって、恋愛して、切ない哀しい想いもしてセックスする──、それらが自然に、並列に描かれるモノを手に出来る自由だ。
 
 さあ、そろそろ結論を書こう。何だって誰が読むかも判らない個人的なネットにこんなしちメンドくさい話をくどくどと書き続けるのか、その意味を、だ。
 
 僕には「売れるモノが良いモノだ」という考え方に圧倒的な違和感がある。作品を商品としてより多く売りたいと思うのは当然だ。例えばライブドア堀江社長の言う、お金は結果だ、だから努力して結果を出すべきだという考え方は正しいと思う。確かSOD高橋がなり代表も同様な発言をしていたと思う。また、エロビデオで大儲けしたいという人がいたってOKだ。AVをヒットさせてフェラーリに乗りたい(実際に乗ってるAV監督は何人もいる!)、六本木ヒルズに住みたい、ガーデンプレイスに事務所を構えたい(あそこには実際に大手AVメーカーが入っている)という理想はカッコイイと思う。ただ、それと自分の作ってるモノの良い悪いが自分で判断出来ないというのとは根本的に違う。
 
 受け手を低く見て、こんなもんでよかんべえと作品を作る姿勢に強烈な嫌悪感がある。良いモノが売れるとは限らないんだよと静観する人の姿勢には賛同出来ない。それは中島みゆきじゃないけれど、基本的に戦うヤツを戦わないヤツが笑う行為だからだ。世の中は青臭い理想だけじゃやっていけないんだよ、大人になれよというヤツがいる。バカである。そういうのを大人とは言わない。スノッブ、俗物というのだ。
 
 実際の話、僕は去年から今年にかけてたまたまソフト・オン・デマンドムーディーズといういわゆるインディーズ・メジャーと呼ばれるセルメーカーの方々に取材させて貰う機会を得たが、彼らはユーザーを低く見ることなどはもちろんのこと、作品の内容に関してユーザー本位とはひと言も言わなかった。彼らがユーザー至上主義というのは流通とパッケージングについてだけである。お客さん達がいかに買いやすい価格で買いやすい方法で商品を手に入れられるかであり、いかに間違いなく判りやすいカタチで内容を知ることが出来るか、である。先に「ごく普通に買える」と書いた意味はコレだ。
 
 かつてAVがレンタル中心だった頃、マニア物と言われた原始インディーズも含め、エロビデオには当たるも八卦当たらぬもという部分があった。パッケージと中身がまったく違うなんてのも普通だった。彼らはとてもシンプルにそこを変えた、そういうことだ。安田理央は、セル市場はユーザーのニーズを作品に反映させなければならないからシビアであり、レンタルの「お客様」は厳密に言えばユーザーでなく問屋やレンタルショップだから、そのぬるま湯的な制作体勢が現在のレンタルの凋落をまねいているのだろうという趣旨のことを書いている。だけど僕は少し意見が違う。それは一部のセルメーカーや制作者の語るセールストークに過ぎない。「お客様を第一にモノ作りをしております」というのはメーカーのポーズだ。ポーズという言い方に語弊があるなら決意表明と言い替えても良い。
 
 何が言いたいのかというと、ユーザーのシビアなニーズ──実用本位のエロだけが欲しい、直接的なエロ以外要らないetc.──によって何かが変わったというのは幻想だということだ。それは変わったのではなく、ソフト・オン・デマンドを先頭にしたセルメーカーの企業努力が力ずくで変えたのだ。もう少し踏み込んで言えば、高橋がなりという経営者の執念にも似た経営哲学が変えたのだ。何故ならレンタルショップ同様セルショップだって利ざやが大きい方がおいしい。価格を下げるには大きな抵抗があったはずだ。高橋がなりは「AVの地位を向上させたい」と言ったそうだ。「だから一般商材として流通させたいのだ」と。つまりAVを「アヤシイいかがわしいモノだから高い」から「適正な価格でごく普通に買えるあたりまえの商品」へと変えたのだ。実際SOD社内は売り上げが激減するのではという大きな危惧があったそうだ。もちろん高橋がなりソフト・オン・デマンドもそれに追随した各メーカーもユーザーの声には真摯に耳を傾けただろう。しかし断じて「売れるモノが良いモノだ」というようなダサイ考え方ではなかったはずだ。そんな考え方で人は動かない、ましてや世の中は何も、変わらない。
 
 もう一度書く。僕が何故こんなコトを長々と書いているか、だ。こんなところ──と言うと読んでくださってる方々に失礼だが──に文章を書いたって僕には一銭のお金だって入って来ない。タダだ(涙)じゃあ何んで書くのか? 仕事だからじゃない、使命感でも義務感でもない。それは文章を書くことが僕の快楽だからだ。世の中には二種類の人間がいる。自分の好きなことだけをやって生きていく人間と、やりたくないことを嫌々やって生きていく人間だ。
 
 僕は自分の快楽に従って生きていきたい。カンパニー松尾は名作『Auction02』を作り上げるのにどれほどの労力を傾けただろう? 可愛いお姉ちゃんと楽しくハメて作ったんだろうと思う人がいたら圧倒的に想像力が欠如したアホだ。初対面の女性の心に入り込み、本音を聞き出し、理解し合い、セックスまでしてさらにそれを一遍の物語として構成する。そこにはどれほどの緊張感とどれほどのパワーが必要だろう。そしてさらにその先には、あの神業としか思えない編集を完成させる気の遠くなる作業が待っている。 
 
 編集と言えば平野勝之は『UNDER COVER JAPAN』の「第一部・暴風の北海道編〜風と共に去りヌ」のパート約50分の、音声を作り上げるだけで約一週間ノンリニア編集機から離れなかったと聞いた。松尾が、平野が、その全勢力を傾けて作品を作り上げた時の快楽はどれほどのものだっただろう? 僕は、その快楽に嫉妬する。去年の暮、HMJM事務所で「こんな売れそうもないモノをつくってしまいました、アハハ」と言って嬉しそうに『UNDER COVER JAPAN』のインナースリーブの校正刷りを見せてくれた時の松尾の笑顔が忘れられない。あれは、モノを作ることの圧倒的な快楽を知っている男の顔だ。
 
 仕事とはいえ年間何百本というAVを見る。タダで観させて貰って本当に申し訳ないれけど、そのほとんどがクズだ。あるいはまったく何の仕事の関係も無いけれど雑誌を送ってくださるエロ本出版社もある。それも正直な話、ひどいものがほとんどだ。予算が無いのだろう、借りポジばかりで構成した誌面、ダサいレイアウト、読むべき意味すらない文章──、こういうモノしか作れなければ、売れなきゃやってられないよと言いたくもなるだろう。そこにはモノを作る快楽なんて、入り込む隙間は寸分もない。
 
 このサイトが、どれだけAVやエロ本業界の人に読まれているのかは判らない。ただ、これだけは思う。年寄りはもういい。だけど少なくとも若い人だけは、売れるとか売れないとか考える前に、とにかく自分が好きなことをやってくれないだろうか? それで、取り敢えずはやってみて、やっぱり売れないと意味ないよという結論に達しても遅くないのではないか。あるいはやがて歳をとって女房子供が出来て、いつまでも好き勝手やってられないよなというのもOKだと思う。いずれ大金を稼いで若い才能に投資するなんてコトも出来るかもしれない。少なくとも、思うまま自分の快楽に従って生きている人に嫉妬して生きるなんていう、淋しい人生だけは歩まなくてすむ。
 
 最後に、僕はカンパニー松尾とHMJMはもちろん、HMJMオリジナルDVDに関してとても楽観的だ。年寄りや狭い業界だけを静観する人はもういいのではないか? 例えばパンクロックバンド・銀杏BOYZのヴォーカリスト峯田和伸さんはご自身のブログ*5カンパニー松尾の『Auction02』に対し「僕にとって最高の映画だ。感動しました」と書いている。彼のような若い人、そして銀杏BOYZのライヴを観に行っているようなもっと若い男の子や女の子達がいずれ必ず支持するはずだ。ちなみに末井昭さんは今、銀杏BOYZの本を作っているそうだ。
 
 錆ついてしまうより燃えつきたい、ロックンロールは決して死なない──。そういうことだ。ヘイヘイ、マイマイ

*1:写真はHMJMウェブサイト02月22日のトップページより。「ハマジムオリジナル再開まであと357日!?」というコピーが付けられている。

*2:今はネット等の通販もあるが、それ以前にドメスティックな場でも女性がAVを見るハードルは高い。「AVが好き」「見たい」と言って彼氏に「オマエ、異常なんじゃないの」と言われたなんて例は掃いて捨てるほどある。

*3:何故ココでエロ本の話になるのか? エロ本とAVを混同しているのではない。AVは基本的に70年代の篠山紀信「GORO」激写等から始まるグラビア文化から発展したものだ。直接的にはその鬼っ子として生まれた三流エロ本、ビニール本の映像化である。よく思われているようにピンク映画、にっかつロマンポルノの発展形では決してない。その証拠に初期AVを牽引した宇宙企画、KUKI、VIPはというメーカーは元ビニール本出版社である。ピンク映画出身の監督にはAVの巨匠・代々木忠がいるが、彼はその世界では非常に異端な存在であった。

*4:末井昭氏のweb日記はこちら“絶対毎日スエイ日記”プロフィール等もココにあります。

*5:“峯田和伸の朝焼けニャンニャン”02月27日。